ノベライズ版『花燃ゆ』を読んで

留魂録』より「私の心を継いでくれる人がいたら、私の実は空ではない。どうかひと粒の籾として次の春の種となれますように。」

 この物語は残された者たちが思いを継ぐ者となる話だ。

 「至誠にして動かざるは未だこれ有らざるなり」、これは吉田松陰の生涯の信念となる。

 「精一杯の誠意を以って相手に接すれば、それによって心を動かされない人はいない。」

 物語の中でも登場人物たちはこの信念のもとに動いてる。

 この作品は主人公が文という女性であるがために「女たちの~」という句がいたるところに出てくる。それは最初から最後まで鼻をつくものに感じられた。なにも主人公が女性だからといって「女」であることをこれほど強調することもないだろうという反発心は残ったが、これまでの歴史は、幕末から明治維新にかけて活躍した女性はほんの数人しか脚光を浴びなかった。

 

 しかし松陰の母、滝や、松下村塾では塾生たちの世話を滝や文がしていたこと、松陰が収監された野山獄では高須久子が心の友であったこと、美和(文)が毛利家の奥御殿に入り、長州の政治の表舞台に少なからず変化をもたらしたこと、実際には使用されなかったが、長州の欧米商船砲撃で、その報復を予想して女性たちで作った女台場、群馬の県令都として将来、美和の夫となる楫取素彦と共に群馬の生糸産業を支えた女性たちの働き。

 

どこまでが、虚飾かは定かではないが、ひょっとしたら、この幕末から明治の転換期を水面下で多くの女性たちが支えていたのではないだろうか。だからこそ多くの英傑たちが自由に動くことができたのではないだろうか。人口の半分が女性であることからしても、女性たちが何らかの時代の変革に関与していたと考えた方が自然ではないだろうか。

 

松陰は、妹である文に「お前は人と人をつなぐ不思議な力がある」と言っていたが、文だけでなく、人というものは人と人が繋がって成りたっていると思う。つまり志とは人から人へと繋げられそしてついに成し遂げられるものなのだ。

 

幕末は数人の優れた英雄の時代だと思われがちだが、実は名もなき人『草莽』によって成し遂げられたと言えるであろう。英雄と言われた人々も、松下村塾出身者でのちに明治政府の重鎮になった人々も最初は名もなき「草莽」の人々であった。その人々が種となり、また別の人へと種が受け継がれ、やがて花になり、実となっていく。そして種となる。その繰り返しである。この連動力となるのが、松陰の根本の思想、「至誠」なのだと思う。

 

私が学生の頃、ある教師が「よく老人や中年たちは次世代の若い人に期待すると言うが、なぜ自分自身でやらないのか」と私たち生徒に問うたことがある。これはある意味、真実であろう。松陰は人の一生にはそれぞれ四季があると言っていた。また、杉家の人々いつもどこでも働きながら学問に勤しんでいたことを思うと、人生に早いも遅いもない気がしてくる。生きている限り、日本人には選挙権が与えられているのだ。

 

たとえ、老いても、心を尽くし人に接する謙虚な姿勢は何歳からでもできる。そしてそういう姿を見て、本当の意味で若い人の中で種が蒔かれる。作品ではそこまで示唆しているかどうかは分からない。だが、人として、命ある限りは、自分の可能性を閉ざすことなく、諦めることなく、心を尽くして人と接することを続けていきたいと思った。そうすれば人も必ず答えてくれると信じたい。

 

 松陰の母、滝を中心として杉家の人々は「世話あない」という言葉をよく使う。これはおそらく、意味は「大丈夫だ」あるいは「どうってことはない」というような、相手を安心させる言葉のように思われる。これは作者の創作かもしれない。あるいは実際に伝聞として残っているのかもしれない。たとえ作者の創作だとしても、滝の人柄を物語っている。この滝の「世話あない」という言葉で、松陰の叔父の玉木文之進や松陰自身を取り巻く深刻な空気がかなり緩和されていたように思う。あまり物事を重く考えさせないようなこの言葉に救われた気がする。私自身、物事を深刻に考えがちなのだが、この「世話あない」という気持ちに安ど感を覚えた。この言葉で困難な物事を乗り越えていくことができたらと深く感じ入った。難しい文言や美辞麗句よりもこの短い口癖が、松陰たち家族の人生を救っていたと考えられはしないだろうか。